本名 山口彰一郎
職業 自営業(主に分析機器の調整。何でもやるので仕事を下さい)
資格 第一級アマチュア無線技士、アナログ第2種電話工事担任者、MIDI3級、
普通自動車運転免許
1950年8月 京都市北区に音楽を生業にして生きる父の末っ子として生まれる。
195×年頃 風呂屋で歌謡曲を歌う子であった。得意曲は春日八郎「お富さん」。
1960年 貧乏になって、昔からあったオルガンや蓄音器類は全て質屋のたねに。
1962年 電気や機械に興味を持ち始める。家にあった中波ラジオのコイルを
ほどいて短波ラジオにして、一晩中聴いていた。勉強しなくなった。
1965年 中学ではラジオ部の部長だった。ラジオの部品を買うために新聞配達を
したことも。アマチュア無線の免許を取得。またもや勉強せず。
1966年 何とか入れた紫野高校。エレキギターに夢中になる。(アエラの写真)
またもや勉強をサボってタバコ臭い軽音楽同好会のボックスに入り浸る。
1968年 進学でバンドが解散。勉強しない二人で他校の人間とバンドを組む。
そのバンドが最近まで所属していたビートルズのコピーバンドである。
いちばん多くライブをした時代。
1969年 いきなり、サラリーマンになると言って、○ヨシ百貨店で10回払いで
スーツを買って貰って、事務機の営業マンになる。しかし世間は甘くなく
挫折の繰り返しで転々と職を変える。音楽からキッパリと足を洗う。
1970年 近くの喫茶店で働いていた女性と仲よくなり、いきなり結婚する。最近
はやりの「出来ちゃった結婚」。そのころ最近まで勤めた会社に就職。
大阪で万国博覧会の年。
1971年 長男生まれる。夫婦ともども、わけもわからず子供を育てる。
197×年頃 高度成長経済で給料は3年で軽く2倍になった。しかしオイルショックで
いきなり突き落とされた。祇園とかによく飲みに行った時代。カラオケは
まだLPでかけていた。8トラックのテープが出てきたのもそのころか。
家でも歌謡曲やフォークのカラオケをよく練習した。飲み屋の姉ちゃんに
ええかっこするために。そのころから飲み屋のホステスの質は下がった。
唄を歌うか、手拍子をするだけのホステス。
198×年頃 仕事で使うとウソをついて、パソコンを買った。まだグラフィックも漢字も
使えない初期のパソコンだ。しかしすぐに子供のゲーム機になってしまった。
そんなとき、FM音源のチップが出だしたので、それを買ってコンピューターで
音を鳴らす。それがDTMの初期のころ。しかし自作の音源基板とPCの間は
50芯のフラットケーブルでつながれていた。
199×年頃 高校の同窓会で演奏したのをきっかけに音楽にまたもや足を踏み入れてしまう。
同級生の市川修なんかのライブにも行くようになる。ある日、西野やすしという
ギタリストをライブのタイトルが面白かっただけで見に行く。それから西野のギター
にはまる。ライブハウスにもはまる。夫婦の危機おとずれる。離婚を経験する。
1999年 リストラに遭う。人生で初めての雇用保険で暮す。あまりにも楽すぎる。
ハローワークには人があふれていた。会社の生命保険の解約金でニューヨークに
旅立つ。すごい元気をもらってくる。
2000年 雇用保険も切れたので、仕方なしに個人事業主となった。別に野望はない。しかし
毎月決まった収入がないというのは、とても暮しにくいものだと知る。
あるとき、あるバンドの対バンがポシャったおかげで、その替え玉として
初めて個人名でライブをする。そこに来ていた人の紹介でまたもやライブをする。
そのとき、レパートリーは十数曲しかなかった。
2001年 一月に昨年のライブの記事が新聞ざたになる。それがリストラミュージシャンという
ふざけた名前の由来になった。その後、京都チャンネル、毎日放送「ちちんぷいぷい」
などに出演する。鴨川での「チェンジ・ザ・ワールド」は語りぐさ。最後は
雑誌アエラの餌食となる。ベルボトムのジーンズにサイケのシャツは海を渡り
NYでも何人かの人を笑わせた。
現在に至る。