やまさんのちょっとひとこと

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ライブリポートも最近書くのがめんどうになりましたので、このコーナーは私、やまさんが最近気づいたことや思いついたこと、面白かったこと、腹立った事などの独り言を書くことにしました。

過去の記録

1998年
1999年
2000年


2001年1月から3月(2001年3月30日記)

 このコーナーも久々に更新した。ホームページというものをやりだしてもう5年になる。最初は誰も見ていないから適当にやってきた。でも最近はインターネットというものが市民権を得た?状況になってきて、誰もかれもインターネットと言っている。なのでこのような弱小ホームページであろうとあまりいい加減な事は書けなくなってきた。某M首相もIT革命だのなんだのと言っていたが彼の首相生命も風前の灯火のようだ。ある首相が就任して、上向きかけていた景気も下降の一途をたどって、失業率もすこしも減少しない。これほど期待されなかった首相は過去にいたのだろうか。
 昨今、リストラ、リストラと世間では騒いでいるのだが、この私も実は2年前にリストラという名の会社都合退職をした。一方的な解雇であると私は主張したが、やむを得ない事情の会社都合退職となるらしい。別にそれで失業保険の支給額が変わるわけではないので、どうでもいいことにしておいた。しかし、このリストラによって、私が新聞やテレビにまで登場するようになるとはその時思いもしなかった。それにリストラされて深刻な人たちは世に山のようにいるはずである。
 事の発端は、確か去年の9月頃であろうか。私がよくいく伏見の居酒屋があって、そこで小竹親、松本マンボのライブがあった日のこと。あるギタリストが「11月のライブで対バンがポシャってしまったんやけど、やまさんやらへん?」という話を私にした。平常な時であれば、「考えとくわ。」位の返事しかしないだろうに、多分酔いがかなり回っていたのであろうか。「うん、やるわ」と答えてしまったのである。そのとき、その事の重大さなどまったく感じなかった。しかし、よく考えてみれば、ソロで歌うことになるのだぞ。レパートリーは?。など考えてしまうととてもえらいことをしてしまったような気になった。でも、考えていても時間が経つばかりなので、なんとかしなければと考え、誰かに助っ人を頼むことにした。それがご存知あのバンブーの小竹直であった。彼は以前からよく、「ライブをするんだったら、言ってね」と言っていたのを思い出し、さっそくメール。そして承諾してもらったのである。それだけですめばよかったが、なんとボイトレの先生ともう一人女性ボーカリスト、それに話を持ってきたバンドまで、共演というなんともゴージャスな企画になっていった。私も自分の歌える全ての曲を(本当に歌える曲はすくなかった)持ち出してライブに臨んだ。
 そんなわけで、私の初個人ライブは西院のOOH-LA-LAというライブハウスで無事に終えることができた。まずまずの出来だった。その時によんだお客さんの一人が私を某K新聞に売った?のだった。そして次のライブは急遽決まった。それは京都のあるレストランでのライブであった。その時に某K新聞の記者は取材に来たのであった。いままでマスコミには縁のない私であったので、これがどんな反響がおこるとも知らず快く取材に応じたのであった。そのレストランでは助っ人の人間が誰もスケジュールが入っていて、私一人でやることになった。何せ一人というのは緊張もするし、どうすればいいのかもわからなかったが、仕方がないのでやった。友達がたくさんお客を呼んでくれたので、更に緊張した。ライブ中、写真をかなり撮られた。そのまま、一ヶ月ほど経過した今年の一月のある日、突然いろんな友達から電話があった。「デカイ新聞記事が載ってるで」。私は某K新聞をとっていないので、慌てて販売店に駆け込み「夕刊2部くれ」なんで2部といったかわからないが、とにかく2部買ってそっと開いてみると、なんと昔で言うところの”三面記事”にデカデカと載っているではないか。しかも七段抜き。外務省機密費横領の記事よりもよりもデカイ記事であった。(記事参照
 その日を境に私の生活はずいぶん変わっていったといえよう。まず一般の方から、ライブ情報の問い合わせ。励ましのお言葉。さらに某シルバー人材センターのライブ依頼(これは少し私の主旨と違ったのでお断りさせていただいた)。とそこまではよかったのだが、次に某ケーブルテレビの取材依頼。衛星Kチャンネル。某Aテレビ。某Mテレビ。と取材依頼は続いた。しかし、一体??。何がなんだかわからない状態であった。リストラされて、サラリーマンを辞め、音楽をしているのがそれほど珍しいものなのか。そんな人はたくさんいるのではないのか。この御時世、リストラということばだけが独り歩きをしているように思えた。テレビの取材も全ては対応しきれず、二つはなくなってしまった。しかし衛星Kチャンネルの生放送と某Mテレビのドキュメンタリー風の取材には応じることが出来た。一昔前なら、きっと私は先ず新聞取材の時点でお断りをしていたと思う。しかし、ここ最近は”流れのまま”にというのを自分の生き方にしてきているので、ここは一体どうなっていくのか、自分でも興味があったので、流されて行くことにした。そのうちに普通のオヤジであることがバレて、相手にもされなくなるだろうと思う。テレビ局にもいろいろあって、勉強させてもらった。私も自営業者であるので、コスト感覚は少し持っている。やはり金のある局や番組は強い。というよりも私が一番おどろいたのは、10分のVを作るのに大人五人が丸一日動かなければ出来ないというようなこと。それを考えるとすごい。ただのリストラオヤジにそれだけの金を掛けたことになる。そんな事なら私にそのお金を頂戴といってもスジが通らないか。(笑)そんなわけで、2月のライブ当日は朝の9時半から、夜の10時頃までテレビクルーとともに行動することになった。その番組を見た人はわかるだろうが、加茂川でも歌ったし、三条大橋をギターかついで歩くシーンもあった。自分であれを見たら、やっぱりおかしかった。笑ってしまった。でも向かいのおばあちゃんはそれを見て泣いたという。(笑)それほど悲しく描かれていたのか。しかし、それでいろんな私の友人もテレビに出ることもできたし、まあ、それはそれで良かったかなという気がする。
 しかし、今回のことでおどろいたのは、地方紙の威力。某K新聞の影響力には感心した。テレビというのは、どちらかといえば、見流してしまうようなもの。ところが活字というのは恐ろしいほどずっと残っているものだと。それだけに切り取られた一ヶ所のイメージがずっと読者の頭の中に残るものだと思う。それを思い知らされた気がする。
 3月のOOH-LA-LAのライブも終わり、ほっと一息。もうこれで普通のオヤジに戻れた気がしたある日。インターネットのメールに某A新聞系のニュース週刊誌からの取材依頼が入っていた。オーマイガッド。こっ、こんどは全国誌よ〜〜。もちろん、快くお受けしたのはいうまでもなく、その記事は4月2日発売のアエラに掲載されるでしょう。(いうてしもた。)

   


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